初代 竹雲斎 二代 竹雲斎 三代 竹雲斎 田辺 陽太 田辺 健雄 田辺 光子 吉田 美野
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        1877年〜1937年

初代 田辺竹雲斎(本名 常雄)

明治10年(1877年)に尼崎藩松平氏の御典医だった
田辺眞常の三男として生まれます。

兵庫県尼崎市の自宅近くで竹細工を営む家があり、
幼少のころに興味を持ち始めます。

12歳で当時名工として著名であった
大阪の初代和田和一斎氏に弟子入りし竹を学びます。

明治34年常雄22歳の時、
独立し技巧に長けた兄弟子達の力量や才能を上回り、
和一斎のもう一つの号であった 「竹雲斎」を譲られます。

初代竹雲斎は竹工だけでなく華道や煎茶道にも励みました。

華道は大阪住吉の服部松雲斎に習い、
のちに正風青山流家元を継承します。

煎茶道は当時の籠師の素養といった感があり、
富永潤泉から花月庵流煎茶の皆伝を得ています。

明治36年(1903年)第五回内国勧業博覧会に出品し
三等賞銅牌を受賞、その後数々の博覧会で受賞を重ねます。

弟子や職人を多数抱え、産業的な制作も手がけ、
ドイツを中心にイギリスやフランスを相手に輸出も手がけました。

明治44年(1911年)多くの茶人を輩出し、
芸術に理解の深い町である堺に居を移しました。

弟子の増加、長男利雄の誕生もありましたが、
美術家と交流を深め、より作家としての自分を研鑽するため、
大阪から堺へ移ったと考えられます。



柳里恭(りゅうりきょう)との出会い。

明治末期初代竹雲斎は柳里恭の画と出会います。
柳里恭との出会いが竹雲斎の作家性を覚醒させ、
名実ともにその地位をゆるぎないものとしました。

文人画家柳里恭との出会いは、
文人籠本来の精神と自由な創意を竹雲斎に与えました。
画の中で描かれた唐物の花籠の自在さ、
花が生けられた姿の優雅さなどを研究するにつれ、
竹雲斎の創作欲が 開放され、高められていったものと思われます。
華道も深く理解した彼の感覚が柳里恭の花籠図に
引き寄せられたのでしょう。

このことにより柳里恭式という独創的花籠が生まれました。

大正3年(1914年)大正天皇の大阪府行幸の際、
竹雲斎の「柳里恭式釣り花籠」と「丸型柳里恭式釣り花籠」が
展覧を賜り、献納されました。


柳里恭
   江戸中期の文人、画家。日本の文人画の祖と位置づけられ、
   池大雅、与謝蕪村にも大きな影響をもたらしました。
   若くして中国文化に触れ、中国文化の思想に惹かれ
   文人的思考を強く持っていました


         柳里恭花籠
  (りゅうりきょうはなかご)


古谷を用いた作品

柳里恭式と共に制作の世界に広がりをもたらしたのは
古矢竹による作品です。
(古い竹製の矢の事で深みのある 時代の乗った美しい素材です。)

古矢竹には装飾的な金箔や漆塗りが施された独特の素材ですが、
あまりにも特徴が強すぎ他の籠師は 手がけるのをさけました。

自然と竹雲斎の専売特許となっていきます。

その後も積極的に古矢竹を応用しました。
竹ヒゴで用いるのではなく、割ってそのまま直線的に使用し、
丸竹のまま曲線として組み花籠にしました。
竹雲斎は古矢竹そのものの装飾性を生かし、
固有の世界を築き上げました。


昭和12年(1937年)
東京日本橋の高島屋での父子花籠展
(長男小竹雲斎、のちの二代 竹雲斎と)を最後として
4月26日大阪府堺市の自宅で急逝しました。(60歳)


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