初代 竹雲斎 二代 竹雲斎 三代 竹雲斎 田辺 陽太 田辺 健雄 田辺 光子 吉田 美野
index 作家 三代 田辺 竹雲斎

       

三代田辺竹雲斎(本名久雄)

三代 竹雲斎は昭和15年3月6日に
大阪府堺市に生まれます。

幼少から絵や工作が得意でした。

5才の時、第二次世界大戦で堺も空襲の恐れがあり、
大阪南部の河内長野へ疎開しました。

小学生のころは父である二代竹雲斎が
竹で割った際に出る、竹の身の部分(廃材)で
籠を作っていました。

また父の弟子達と竹を割ったり、
編んだりとよく竹を使って遊んでいました。

昭和29年4月父二代竹雲斎が
故郷である堺に戻る事を決意、
堺市北三国ヶ丘に移ります。

昭和31年、当時二代の友人である日展作家の
中条青香氏が大阪市立工芸高校金属科の
教授であったため工芸高校金属科に入学。

鋳金、彫鍛金、機械を学びました。

工芸高校卒業後は初代竹雲斎の高弟である
大久保尚竹斎に竹芸を学びます。

その後より深い造形を学ぶため
武蔵野美術大学工芸工業デザイン科に入学。

在学中は竹で照明器具、ハンドバッグなどを製作、
春夏冬の長期休みには実家に帰り、竹芸を学びました。

「工芸工業デザイン科なのに竹の作品ばかり作る」と
当時の教授によく注意されたほど竹が好きでした。

幼いころから家業を継ぐことが大切であると
教育されていたのもあり、
竹芸の道に入ることは自然でした。

昭和39年、武蔵野美術大学卒業後、
堺に帰り、初代の弟子の一人である
塚由忠義氏に学び本格的に竹芸を始めます。

この年日展に「直花籠(ちょくはなかご)」を初出品。

初入選し作品は堺市に買い上げされます。

この直花籠は三代竹雲斎の作品の特徴である
矢竹(弓の矢に使用された竹)を
そのまま使い構成された最初の作品です。


「矢竹」と「三代 竹雲斎」

三代竹雲斎は日展初出品にあたり、
初代や二代とは違う
自分のスタイルの作品を考えていました。

デザインは浮かぶが
なかなか素材をどういう風に使えばいいか
わからず悩んでいました。

そんな時、幼少のころ疎開先である
河内長野で遊んでいた「矢竹」を思い出します。

当時はまだ沢山の本物の矢竹があり、
その素材の美しさ、緊張感に魅かれました。

そして矢竹の先を点とし、
矢竹の真っ直ぐさを線としました。

点と線の構成により面を作る
現在のスタイルが構築されました。

当時としては縁のない籠は珍しく、
若々しい竹を素直に用いたと評されました。

その後も矢竹の作品を積極的に作り展開していきます。


昭和40年日本現代美術展に出品初入選。

日展出品作「輪象(りんしょう)」は
外務省買上となります。

輪象は矢竹を放射状に構築し建築性を持たした作品です。


昭和44年、二代竹雲斎から「小竹」の号を授かる。

翌年大阪高島屋にて父子展を開催。

昭和46年に、毎日新聞社主催
「竹雲斎竹芸三代展」を開催。

昭和49年には日展作の 「方(ほう)」が
東京国立近代美術館に買い上げ。

その後も日本現代工芸展、日展、大阪工芸展、
全関西美術展などを中心に出品しています。


                  輪象


                 空

三代 竹雲斎 襲名

平成3年、51才で三代竹雲斎を襲名。

大阪高島屋にて襲名展を開催しました。

以降、毎年大阪高島屋にて個展を行っています。

襲名後は海外でも展覧会を開催。

平成10年にはタイでのアジア大会竹芸展に出品。

平成11年アメリカボストンにて竹雲斎展を開催。

その後もNYやサンフランシスコで展覧会を行いました。

また韓国、ニュージーランドで
美術家交流展も行っています。


現在は代々の技術を学びながら、それを生かし、
現代の竹芸として造形していきたいと考えています。


閉じる
 
index へ